神社・仏閣・史跡

由布院盆地は目抜き通りを一歩離れると「静かで穏やかな場所」が沢山あります 。
そこには何気ない日常に溶け込んだ 、あたりまえの生活と自然が。
長年営まれた由布院盆地の歴史に触れる「小さな旅」は如何ですか?

金鱗湖(きんりんこ)

由布院の自然豊かな象徴でもある金鱗湖(きんリんこ)。由布岳の下にある池ということで、 大分なまりで「岳ん下ん池(=岳の下にある池)」と呼ばれていた湖は、1884年(明治17年)に儒学者の毛利空桑(もうりくうそう)が、湖の魚の鱗(うろこ)が夕日に輝くのを見て「金鱗湖」と名付けたと伝えられています。冬の早朝に見られる朝霧はとリわけ美しく、霧の正体は温泉を含んだ湖が蒸気したものと言われています。

由来・伝説 >>

天祖神社(てんそじんじゃ)

今でこそ金鱗湖(きんりんこ)一帯が観光地として多くの人々が頻繁に行き交うようになりましたが、何年か前までは朝夕、村人たちが浄水をくんで背負って帰る姿が当たり前のように見られていました。地元、温湯(ぬるゆ)地区の子供達が昔から集まるこの神社の両脇には由布岳からわき出た水が今もさらさらと流れています。金鱗湖を背にしているこの神社には中央に天祖神(てんそじん)、向かって右に八坂神社(やさかじんじゃ)、左方に金比羅神社(こんぴらじんじゃ)を祀っています。

由来・伝説 >>

佛山寺(ぶっさんじ)

金鱗湖と由布岳、そして湯布院の自然に囲まれたこのお寺は地元の人々にとって重要な寺院の一つです。約千年前、日向国霧島神社での神のお告げにより由布岳の山腹にて庵を結び観音像を刻し祀ったのが始まりです。以来、由布の霊場の本拠地とされてきましたが慶長(けいちょう)の大地震によリ、本尊が山谷に転落してしまい、時の村人が、現在の場所に移したそうです。

由来・伝説 >>

新・四国八十八ヶ所

明治42年の開所以来 、参拝者は多くいたのですが、戦中戦後にかけて荒廃していました。その場所を地元温湯(ぬるゆ) 地区の住民達が平成6年よリ再興に向けて活動を開始し、平成9年には霊場のほぼ全域が開所当初並に戻りました。四国八十八ヶ所と同じく一番札所より八十八番まである霊場で、手彫りの小さな石像が祀られています。

由来・伝説 >>

狭霧台(さぎりだい)

由布岳の麓にある狭霧台は標高約680mから由布院の町並みが一望できる展望台です。やまなみハイウェイ(県道11号線)を別府方面に車で10分ほど走ったところにあリます。展望台を囲む由布岳の四季折々の山景色は素晴らしく、山と空のコントラストが美しい春~夏、黄金のススキがゆれる秋、 雪景色の冬と表情を変えて私たちを楽しませてくれます。また、秋から初冬の早朝には幻想的な朝霧が見れることもあリます。

由来・伝説 >>

宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)

通称「六所様」と呼ばれてきたこの神社。六所とは、奉祭する六柱の神々を現しています。由布院は弥生以来の遺跡を持つ沼で、動物の「うなぎ」を沢沼の精霊として祀ったのが古来の祭神ではないかと言われています。この六所宮の境内はかつては相当の広さがあったそうです。過去何回もの伐採の経緯があり、その中でも戦国時代の末期、「大友義統」の時代に、大分市に鎮座する豊後一の宮「柞原(ゆすはら)八幡宮」造営用の材木をこの六所宮から伐採されたことがあったという古文書が残されています。平成3年の台風19号で大きな杉のほとんどが倒され、今ではその切株を祀っ ています。

由来・伝説 >>

興禅院(こうぜんいん)

興禅院は、菊池寛の名作「恩讐の彼方に」の禅海和関の得度の寺である。 洞門造りの大願を立てたゆかリの寺であるが、昭和48年に火災があリ、木造の旧伽藍は全焼し、その後不燃性の本堂と庫裏が再建されました。

由来・伝説 >>

大杵社(おおごしゃ)

大杵社は字奈岐日女(うなぐひめ)神社の末社で、草創は本社六所宮と同じ数千年の経た景行天皇の時代といわれています。大杵社の大杉は国の重要文化財に昭和9年に指定され、根元の周囲が13.5メートル、高さは35メートル。根元には畳3枚ほどの空洞があり、樹齢は1000年以上と言われています。この空洞に明治30年の大晦日、ごみ焼き火が入り2年2ヶ月2日も燃え続け、「煙が幹の30メートル上部の穴から噴出した」と伝えられています。一時はこれでおしまいかと思われた大杉。しかし、前よりも勢いが増したそうです。

由来・伝説 >>

西蓮寺(さいれんじ)

西蓮寺は初代住職釈祐専により1606年に開基された、町内で最も古いお堂です。現在の本堂は1754年の再建による寄棟造の伽藍です。本堂内の格天井には詫間文男氏によって描かれた226枚の水墨画で埋め尽くされています。700坪に及ぶ境内には樹齢250年の野田ふじの花とエビネランの花があリ、花の季節には多くの観光客で賑わいます。

由来・伝説 >>

旧 日野病院

日野病院は、江戸時代から続く医家で、この建物は、明治27年に日野医家3代目にあたる日野要(かなめ)氏によって建てられました。病院の建物は、擬洋風で、このような建築は県下で最も古く、日本でも珍しい建物であり、平成11年に国の重要文化財に指定されてました。玄関上のベランダ、雲竜の彫刻、円弧式アーチの窓、戸袋の鏝絵(こてえ)、診察室の寝台、古いレントゲン機械、螺旋階段、黒檀・鉄刀木の床柱、座敷便所など、建築費用は当時2万円(当時の大工の日当54銭)を要したそうです。

由来・伝説 >>

仏光寺

寺院の歴史は古く1417年の記録が記されています。石段を登リつめると正面に本堂、右手には1524年に建立された「六地蔵」(県重要文化財)があり、東側には町内で最も大きい樹齢200年以上と推測される、銀杏の大木があります。

由来・伝説 >>

若宮八幡社

若宮八幡社は、823年本社宇佐八幡宮の御分霊を祀ったのが始まりです。神社の西側にある岩の間から多くの浄水が湧水しており、飲むことができます。昭和63年に県の「豊の国名水」の一つとして認定されており、大分川の支流「宮川(みやかわ)」 の源流になリます。

由来・伝説 >>

キリシタン墓地

大分県 指定有形文化財 昭和35年2月22日指定由布院のキリシタンの歴史は、約410年前の天正八年(西暦1580年)湯布院郷士の一人、 奴留湯左馬介(ぬるゆさまのすけ)が、部下とともに洗礼を受けた事にはじまります。慶長19年(西暦1614年)以降、きびしい「宗門改め」が行われ、キリシタンは一応終焉したが、いわゆる隠れキリシタンとなった者も多くいました。歴史を物語るように町内には、多くのキリシタン墓がありますが、一番多いのが、この墓地で十字章のあるもの30基、隠れキリシタンのものと見られる40基があリ、苔むした墓に昔の面影がしのばれます。

由来・伝説 >>